【日体大/藤本珠輝】僕が走り続ける理由 #11 ~4年間~
月刊誌、WEBサイトの編集を経てフリーランスとして活動。スポーツを中心に教育関連や企業PRなどの制作・運営に携わっています。屋外の取材が多く、髪の日焼けやパサつきが気になりつつも「髪コト」に参加するようになって、日々のケア方法などを実践するように。最近はヘッドスパにハマる中、みんなの人生を豊かにするよう記事づくりをしていけたらと思います。
「4年間、箱根という大きな舞台を経験できたのは、経験値としては手応えになります。でも、まだまだ。力不足は感じましたし、『良かったな』とは、まだ言い切れないですね」
4度、駆け抜けた箱根路を思う。
1度目は5区。2度目は1区。3度目と4度目は“花の2区”だった。
総じて、その道のりは険しかったと言う。
チーム目標のシード権獲得も、個人目標の区間賞も、4年間で手にすることはなかった。だからこそ、もう走ることのできない箱根路に対して、思いが募る。
「毎年、やっぱり悔しい思いが大きかった。悔しかったり、もっとできたりしたんじゃないかって。今年も悔しさのほうが強いですし。でも今回は特に、思っていた以上に気が張っていたのかな。走り終えて、気持ちが楽になったと言えばおかしいですが、それに似た思いを感じています」
そう言って4度目の箱根駅伝を走り終えた藤本珠輝(ふじもと たまき)【日本体育大学陸上部駅伝ブロック】は、少しだけ清々しい表情を見せた。
「本当にこれが最後なんだ」
藤本が、気を張っていた理由。それは「4年生になって、走れない時期がとても長い1年でした。その中で最後の箱根駅伝(第99回東京箱根間往復大学駅伝競走)を走ることになって『今年こそは、今年こそは』という気持ちが強かったんですよね。4年生になったばかりのころは調子も良かったので、そのままいければ精神的にもいつも通りでいられたと思いますが、(長期離脱となった)ケガをして……いつも通りじゃいられなくなった。気を張っていたんだと思います」
陽が強くなり始めた2022年5月のレースを最後に、藤本は走ることのできない状態に陥った。早期復帰を目指したものの、状態は回復せずに夏から秋、そして冬へと季節が移った。
最後の箱根駅伝を走れると実感したのは11月の終わり。木枯らしの吹く寒いころだ。
「11月末の記録会でようやく光が見えてきました」
それから1ヶ月もしないうちに、日体大の玉城良二監督は、藤本と何度も面談を繰り返したあと、2区起用を決めていた。昨年に続く“花の2区”。今年の藤本が感じたのは「短時間の準備で勝負できるような区間ではない」ということだった。各校のエースが揃い、レース全体のカギを握る重要な23.1キロ。
うれしさも不安も責任も。様々な感情が入り混じって、当初こそ「自信がない」と伝えたそうだが、監督の決意に、心が決まった。
「監督から『2区を任せるのはお前しかいない』というような話をしてもらいました。その言葉を聞いた以上は自分も腹をくくって、箱根に臨みました」
2023年1月2日。
いつもと変わらぬ朝を迎え、鶴見中継所のスタートラインに立った。
思いはひとつ。
「1区の山崎丞(やまざき たすく)が本当にすごい頑張りを見せてくれていました。その流れを途切らすわけにかない」
その気持ちでいっぱいだった。
必死に駆け込んできた山崎から受け取った“たすき”は、いつもより少し重かった。今年は「4年生の責任」が乗る。それでも、いつもどおりに肩にかけて走り出すと、聞こえてきたのは、自分の背中を押す、たくさんの声。
「今年は本当に多くの人が応援してくれました。自分の名前を呼んでくれた方々もいます。うれしかったですね。その中を走って行ったラスト3km。監督車から『最後だから頑張れ』という言葉が聞こえてきたんです。本当にシンプルな言葉で。自分自身でも『本当にこれが最後なんだ』『最後の箱根なんだな』という気持ちに、走りながら気づくことができたんです。それまで“最後”ということは、あまり気にしないようにしていました。最後だと思って力が入りすぎてもまずいかなって思って。でも本当に苦しい場面で、監督の声が聞こえてきた。『最後だ』と気持ちが入って粘れたのも、その声のおかげです」
最後の箱根は、1:08:11。
区間12位で走り終えた。
数字だけを見れば、決して納得も満足もしていないだろう。
それでも、11月末まではケガの影響で走れるかわからない状態だったことを思えば、エース区間を走り切り、たすきをつなげたことに大きな意味がある。
チームとしても、今年の日体大は復路のスタートこそ一斉スタートとなったが、真っ白なたすきは途切れることなく、最後まで確かにつながった。
藤本からすれば「4年生がやってきたことが結果になる」と感じた箱根駅伝で、「ズルズルと後退せずに走りきれたのはチームの成長です。感慨深い気持ちになりましたね。何より、4年生の、みんなの力走がうれしかったですし、グッと来ました」と、頬を緩めた。
そして、思い返す。
「1年生の頃の夏合宿は、練習と食事は全体で行いますが、それ以外(の生活の部分)は1年生だけ。不安もあったんですけど、みんな物怖じすることなく、すごく明るくて。昔からの知り合いかのように話していたのが、とても印象でしたし、4年間、この学年でやっていけるなって思った瞬間だった」
藤本にとって、チームメートの存在は「4年間の中で最も得たもの」だった。
そんな、かけがえのないチームでつなげた、最後のたすき。
2023年1月3日。
大手町の寒空に、そのたすきがたどり着いて初めて「これで、4年間が終わったんだ」と実感した。
苦難の中でも、走ることに対する根本的な楽しさは変わらない
振り返れば、藤本の過ごした4年間は「これまでの陸上人生の中で一番うまくいかなった」時間だった。
「新型コロナウイルスの流行は、大きく影響しました。練習時間が確保できなかったり、外出することもできなかったり。それまでの生活からは考えられない状況であったので、本当に苦労しました」
世界を襲った感染症。その影響は、例外なく競技生活も脅かした。大学に通うことはおろか、寮にいることもできず、実家に帰省にして、ひとり黙々とトレーニングに明け暮れる日々。
それでも決してマイナスをマイナスのままにせず、藤本はプラスの時間に変えていた。
「走っている時はひとり。自分との戦いではあるんですよね。それは日常生活でも言えることで、自分ひとりでも練習や生活ができることは競技にも直結します。それを感じましたし、選手としては自己管理能力や調整力がついたなと思います」
学生時代は毎週のように大会や記録会に出ることも多かった。過密日程のようなスケジュールでも「うまく調整をできた」のは、ひとりの時間を大切にしてきた結果だろう。
調整がうまくいけば、当然レースでの結果も出る。
コロナ禍の厳しい環境にあっても、ランナーとしての力は着実に伸び、大学卒業後の競技生活と向き合うようになっていた。
「少しずつ力も伸びてきたので、卒業後も競技をやりたいなと感じたんです。それが2年生の後半あたり」
高校時代も、大学時代も藤本はエースとして走ってきた。実業団入りは既定路線かと思われたが、将来については白紙。1年生の頃は「教員免許を取得し、教員の道」を考えていたほどだ。そんな彼にとって、競技継続は大きな決断だった。
3年生に進級したころには実業団の練習に参加するなど、将来のベクトルは競技生活続行を指し示した。同時に、気持ちも変化する。箱根駅伝に対する思いも、そのひとつだ。
「1年生の頃は、まだ今後の競技生活を継続するかどうか分かっていなかった段階なので、箱根駅伝を走れたことに満足感や達成感を感じていました。でも学年が上がるにつれて、次の目標が出てきたんです。満足感や達成感に浸っていては、そこで止まってしまう。だからこそ、箱根駅伝の結果を踏まえて、今後につなげていきたいという大会になりました」
憧れの舞台だった場所は、いつしか結果を残す戦いの場へ。
「箱根駅伝は大学4年間の4回しか走ることができません。競技生活の通過点ではありますが、その意味でも、やっぱり結果を残したかった」
2023年1月。もう走ることのない箱根路を思う。
第99回東京箱根間往復大学駅伝競走
日本体育大学
11:06:32
総合17位
悔しさはある。
でも、4度駆け抜けた箱根路で、色褪せないものもある。
「チームがひとつのたすきをつなぐ駅伝は、気持ちもつながるいい競技ですよね。それに、結果が出せれば楽しいですし、練習してできなかったことができるようになると、もっと頑張ろうという気持ちになれる。走ることに対する根本的な楽しさは、ずっと変わらないんです。それから、病気であろうと走れることにも変わりはなかった」
何かを言い訳にして諦めるのはもったいない
脱毛症を抱える藤本は、高校の最後で自身の症状を公表した。大学1、2年時はトレードマークとなっていたウィッグにハチマキ姿で箱根路を走った。当然、陸上競技とは違う角度で注目もされる。
「大学3年生の途中(2021年5月)までは、ずっとウィッグをつけていて……正直、言い訳にしていたところはあったんですよね。『病気だから』って。でも、走るのは自分の身体。決して髪型で走っているわけではありません。大学入学後も、最初は脱毛症の印象がすごく強かったと思いますけど、2年生ぐらいから結果が出始めると、脱毛症の藤本ではなく、日体大のエースの藤本と見てくれるようになりました。自分が頑張っていると、そこを見てくれる。だから何事も、何かを言い訳にして、何かを目指すのを諦めるのはもったいないって、今は本当に思います」
伸びた髪に手を触れて、藤本は言葉を続けた。
「何かひとつでもいいから自信を持つことは大事ですよね。髪の毛がなくて、変に見られたり、馬鹿にされたりしても自分には陸上があるから問題ないって思えました。自信を持てる何かがあれば、気持ちを強く持てると思いますし、両親や友達、応援してくれる方もそうですが、見てくれている人は自分の本当の姿を見てくれています。だから、もっと頑張ろう、もっと頑張りたいって思うんです」
卒業後の藤本は、日立物流で競技を続ける。
症状は落ち着いたが、脱毛症が完治したのかは本人にも「わからない」。
でもそれは、目指す道を諦める理由には「もうならない」ことを、藤本は知った。
次に見据えるのは、フルマラソン。
選手としての特性を考えたときに「短い距離でスピード競うよりは、長い距離。持久系の動きで勝負する方が自分には合っていると思うので、将来的にはフルマラソンでしっかり活躍したい」と、マラソン挑戦の理由を教えてくれた。
そして、夢も。
「陸上を続ける以上、目標は世界陸上やオリンピックです」
箱根の道は、世界に通ず。
苦しみながらも、駆け抜けた4年間は、確実に“これから”につながっていた。
「選手としての力も成長しましたし、人間的にも成長できた4年間でした。今後にもつながっていく時間だと思います」
昨年の自分より今年の自分。できなかったことをできるように。
そんなふうに、自分自身とつなげてきた“たすき”は、パリや東京。ロサンゼルスへとつながっている。
それでも最後に、「ルール上できないのはわかっているんですけど……」と言葉を紡いで、藤本は悔しそうに笑った。
「箱根駅伝をもう一度走れるなら、走りたい。4年間で納得の行く結果を出せなかったですし。今は、未練が……どうしても残っているかなって」
日本体育大学陸上部駅伝ブロック、藤本珠輝。
もうすぐ卒業を迎える彼が駆け抜けた4年間は、そんな時間だった。
【過去の取材記事はコチラから】
僕が、走り続ける理由 #1
僕が、走り続ける理由 #2
僕が、走り続ける理由 #3
僕が、走り続ける理由 #4
僕が、走り続ける理由 #5
僕が、走り続ける理由 #6
僕が、走り続ける理由 #7
僕が、走り続ける理由 #8
僕が、走り続ける理由 #9
僕が、走り続ける理由 #10
公開日:2023/03/10