【日体大/藤本珠輝】僕が、走り続ける理由 #7 ~ハチマキを外して~
月刊誌、WEBサイトの編集を経てフリーランスとして活動。スポーツを中心に教育関連や企業PRなどの制作・運営に携わっています。屋外の取材が多く、髪の日焼けやパサつきが気になりつつも「髪コト」に参加するようになって、日々のケア方法などを実践するように。最近はヘッドスパにハマる中、みんなの人生を豊かにするよう記事づくりをしていけたらと思います。
その日、神奈川地方は薄っすらと雲がかかっていた。
時折、青空が顔を覗かせる。
第98回東京箱根間往復大学駅伝競走。声なき熱気という独特の雰囲気にも少しだけ慣れた頃、顔を歪めた白いユニフォームが鶴見中継所に走り込んできた。
大手町のスタートからおよそ1時間3分58秒後。先頭を行く中央大学から遅れること3分18秒。
「すまん。頼む」
19番目に受け取った真っ白なタスキとチームメートの想いを受け取って、日本体育大学陸上部駅伝ブロック・藤本珠輝は、戸塚に向けて走り出した。
ケガに苦しんだ箱根駅伝までの道のり
今年、藤本が走るのは花の2区。駒澤大学・田澤廉、東京国際大・イェゴン ヴィンセント。そして、昨夏、日本を沸かせた学生オリンピアン、順天堂大学・三浦龍司に代表されるように、各大学のエースが集う。往路の勝負区間にあって、藤本もまた、その一人だった。
1年生のころから箱根路を走り続けた経験や昨年春に残したトラックシーズンでの好成績からすれば「夏合宿が明けたくらいの頃に、『お前は2区』と決まっていた」こともうなずけるが、藤本の心の内は、複雑だった。
「走れるのだろうか」
2区を任されることが決まった当時、藤本の足の状態は決して万全ではなかった。チーム練習はおろか、走ることさえままならない。
「6月末の第105回日本陸上競技選手権大会が終わったあと、7月に入ってから疲労骨折がわかって、1か月近くは全く走れませんでした。
8月半ばに復帰したのですが、またケガをしてしまって……。それが9月の頭で、今度はアキレス腱の痛みでした」
疲労骨折が治り、走り始めたのもつかぬ間、このケガが予想以上に長引いた。
「当初はあれだけ練習をしてきたから、ケガをするのは仕方ないと思っていたんですけど、どんどん長引いて『大丈夫かな、大丈夫かな』という気持ちばかりになりました」と、その心境を藤本が語ったように、走れない時期の長さに比例して、焦りと不安が広がった。
駅伝を競う大学にとって、秋は本格的なレースシーズンを迎える季節だ。
箱根駅伝とともに、学生三大駅伝と称される出雲駅伝、全日本大学駅伝もこの時期だが、日体大が見据えるのは、10月下旬の箱根駅伝・予選会。
74回連続出場という記録を持つチームなだけあって、箱根駅伝は「出場するのが当たり前」。日体大の選手たちは、積み重ねている歴史を途絶えさせるわけにはいかないという確固たる使命をも持ち合わせている。
入学後、過去2回にわたって、この予選会を突破してきた藤本は、予選会独特のピリピリするような雰囲気と、チームにかかる期待や重圧、そして責任の重さを、誰よりも強く知っていた。
だからこそ、焦る気持ちも強くなる。
「10月に入っても全体練習には参加していませんでした。
玉城良二監督からも『無理しなくていい』と言われていましたが、正直なところ、予選会を走るのは自分でも無理だと思っていて……ただただ、チームに申し訳ないという気持ちが大きかったですね」
エースとして本戦に導く走りが求められる存在ゆえに、ケガとの戦いは、想像を超えて苦しい日々となっていた。
「これが今の精一杯」。連続出場記録を74回に伸ばした予選会
2021年10月23日。陸上自衛隊立川駐屯地で行われた箱根駅伝・予選会のスタートリストに『藤本珠輝』の名前があった。
聞けば、予選会のわずか「1週間前に、チームに合流できるところにたどり着いた」と言う。ただ「ある程度走れるだろう」という状況で、「ガンガン行こう」という本来の状態には、まだ少し遠かった。それでも「チームで10番目でもいいから、ゴールしてくれればそれでいい」という玉城監督の言葉が背中を押す。エース不在を覚悟して「自分がいない状況を想定して、ずっと練習していた」チームにも、自分自身にとっても、少しだけ明るい光が差し込んでいた。
迎えた、予選会。
「今までにないぐらい風が強く、レース展開が全く読めなかった」中で、「レースの流れに身を任せつつ、日本人選手たちの上位集団について体力を温存しながら、後半に上げられたら」と考えていた藤本は、その言葉通りの走りを見せていた。
だが、この強風が思わぬ展開も巻き起こした。
各大学の上位10人の合計タイムで争われる予選会では、留学生が先頭集団を形成する。そのあとを追うように、日本人選手たちの第二集団が続く。藤本は、この日本人選手の集団にいた。
「最初は留学生の先頭集団もペースが上がっていなかったのですが、中盤以降は、どんどんペースが上がっていったんですよね。
でも、僕がいた(日本人選手の)集団は風が強いので、誰も前に行きたがらない。そこでペースが落ちてしまうと、留学生のいるチームがタイムを稼いで有利になってしまいます。(足の状態が)不安だったんですけど、自分が行くしかない」と決めて、集団を引っ張るような形で前に出た。
10km過ぎからはアキレス腱に痛みも出ていたが「自分が周囲に勝つことよりも、日体大が箱根本戦に出場することが重要なレース。少しでもタイムを稼がないといけない」という一心で、前へ、前へと足を出す。
ケガ明けとは思えぬほどの力強い走りでチームのトップでゴールに入ると、その姿に続くようにチームメートも快走が続き、日体大は全体の3位。10時間39分32秒で75回目の本戦出場を決めた。まさに、背中で引っ張るエースの走りだった。
この結果に藤本は「チームは3位という結果で力がついたなと思いましたが、やっぱり予選会は通過するのが当たり前。チームとしてはそれが当然のこと」と、きっぱりと言い切る。
そして、安堵の表情を見せて付け加えた。
「個人としても手応えというよりは、一安心という気持ちがありました。走り切れるかわからない状況でしたし、予選会は、あのときの自分にできる精一杯の走りだったと思います」
箱根駅伝を走るなら、何もつけなくていい
こうして藤本は、これまでの競技人生の中で初めてという長期期間のケガを乗り越え、三度(みたび)、箱根路に挑むことになった。
12月。足の状態が回復しつつある中で藤本は、一つ、心に決めたことがあった。それはトレードマークの“ハチマキ”のこと。
脱毛症の症状も落ち着き、高校3年生以来に髪の毛が伸びていた。ウイッグはすでに外していたが「ハチマキに慣れていたので、何か頭にないと違和感があったんです」と予選会ではヘアバンドを着用。
だが、箱根駅伝では何もつけないで挑むことにした。
「実は『ハチマキをつけてほしい』という声もあったんです。でもハチマキはウイッグを固定することがメインのもの。それを外した以上は、特別なことはしなくていいかなと思ったんです。
自分の髪がちゃんと生えてきたことで、精神的にもすごく気持ちが楽になりましたし、競技により集中できるようになった。だから、箱根駅伝を走るなら、もう何もつけなくていいかなって」
1ヶ月半に一度、散髪をしている短い髪が、よく似合っている。
その姿で、箱根路を駆け抜ける季節が、すぐそこまで迫ってきていた。
12月29日。第98回東京箱根間往復大学駅伝競走の区間エントリー発表の日。日体大の2区には、藤本の名前が記された。花の2区は「毎年各大学のエースが集って、必死に戦う印象」の23.1km。どんな状態であっても、“エースの走り”が求められる。
藤本は言う。
「自分が思うエースの走りは、絶対に外さないこと。安心して任せられること。予選会では外さない走りはできたと思いますが、まだ完全に勝ち切れない。そこが甘いと感じています。
それから、やっぱりケガをしないこと。そういう面でもチームに不安を与えないことも大事なのかな。この1年、ずっと故障、故障でチームを離れることが多かったので、エースとしての役割はまだまだです。
でも箱根駅伝では2区を任されました。そこを任された以上は、しっかり準備をして走ろうと思いますし、他の選手たちに遅れをとってはいけないと考えています」
2022年1月2日。藤本は鶴見中継所のスタートラインに立った。
「日体大の目標はシード権獲得。個人は区間で4位以内」
秘めた想いを胸に、19番目に受け取った真っ白いタスキを背にかける。隣には、世界と戦ったオリンピアン。当然のようにカメラに追われる三浦とは、高校時代から何度もレースをともにしてきた。
「まさか(1区の走者が)一緒に来ることになるとは」
そんなふうに話しながらも、レース前の二人が心静かに、熱く交わしていたこと。
「どんどん攻めて、2人で前を追っていこう」
3度目の箱根路。エースの走りを見せるには、充分な舞台だった。
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公開日:2022/02/15